リアル二刀流 100年ぶり、60年ぶり、50年ぶり…


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001 2021/04/27(火) 18:46:31 ID:6Hw1npPVkg
球史でも稀なリアル“二刀流”に、大リーグ公式サイトなどは続々と記録を掘り起こした。
「本塁打でメジャートップの選手が先発投手」を務めたのは、1921年6月13日のベーブ・ルース(ヤンキース)以来、100年ぶりだった。

 「投手の3得点」は、メジャー全体では2015年8月6日のザック・グリンキー(当時ドジャース、現アストロズ)以来、
ア・リーグでは10年6月11日のジョエル・ピネイロ(エンゼルス)以来。エンゼルス投手の3得点は史上3人目で、バント安打は02年6月22日のジャロッド・ワシュバーン以来。

 「投手の2安打、3得点」は、71年5月1日のジム・ペリー(ツインズ)以来リーグ50年ぶり。
「投手の2安打、3得点、9奪三振」は61年6月11日のルイス・ティアント(インディアンス)以来メジャー60年ぶり。

https://news.yahoo.co.jp/articles/306937d0d98a339747ba3...

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002 2021/05/09(日) 19:00:21 ID:ulKNLa15CU

Tyrus Raymond Cobb
(= Ty Cobb) タイ カッブ




 安打を量産する「タイ・カップ型」で、コツンと短打狙いに徹し、ドラッグ・バントもお手の物  (カッブ? カップ? 日本ではタイ・カップで呼ばれる)
塁に出たらば、投手が3球投げる間に、一塁から二盗、三盗、本盗を決めるなど、エキサイティングなプレーを得意とした。
 しかし、スパイク・シューズの爪を、ヤスリで研いでから試合に臨む、「勝つためには、どんな手段でも使う。
典型的な勝負師タイプで、性格は悪く、敵どころか、味方からも嫌われていた、というエピソードの持ち主だったそうで・・

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003 2021/05/09(日) 19:38:16 ID:ulKNLa15CU
John Joseph McGraw
ジャイアンツ監督時代

勝利至上主義と戦術の考案
 選手時代に所属していたボルチモア・オリオールズは、1894年からリーグを3連覇したが、そこでは当時のボルチモアの監督ネッド・ハン
ロンとマグローによって様々な戦術が生み出された。例えば、外野手からの返球を内野手が中継する『カットオフ・プレー』を始めたのは、
この時期のオリオールズが最初である。

 地面にボールを叩きつけて内野安打を稼ぐ『ボルチモア・チョップ』は、同年チームに移籍してきたウィリー・キーラーの発案を生かしたものだった。
 ヒットエンドランは、以前ホワイトストッキングスのキング・ケリーとキャップ・アンソンが得意としていたプレーを元に戦術として完成させたものである。初め
てこの戦術を使った対ジャイアンツとの試合では、13回試みて全て成功させ、対戦相手の監督モンテ・ウォードが「こんな野球があってたまるか」とナショナルリー
グ事務局に提訴した、というエピソードも残っている。
 マグローは選手当時から、「勝てばいいんだ」と公言していて、勝ちへのこだわりから様々な戦術を考案したことでも知られている。現役時代、相手選手が三塁を
廻ろうとする際には、必ずベースの内側に立ち、またタッチアップしようとする選手のベルトを引っ張ったりしていた。本塁突入の際には体当たりを忘れなかったと
いう。
 戦術の中には、半ば『悪知恵』とも言えるものもある。例えば、相手チームのバントがことごとくファウルになるよう、グラウンドキーパーに命じて、フィールドの
三塁線沿いに傾斜をこしらえさせた。また、本拠地の外野の芝生の丈を深くするよう指示した。これは外野の芝の中に1、2個ボールを隠し、外野へ長打が飛んだとき、
隠してあったボールを偽って内野手に送球するためだったという。ただ、偽球が中継された後に外野手が本物のボールを送球してしまったりして、この策略は長続きし
なかった。

プロスポーツから発展した競技は「勝てば、それで良いんだろ!」に、なりがちだね!
サッカーなんか、シャツを引っ張る、当たり前だもんな! 汚いスライディング・タックルから、シュミレーションで上手く転んで、フリーキックもらって、PKもらって・・
ずるいサッカーもできないと、一流選手とは言わない? 
1930年以前の野球も「ずるい野球ができないと、一流とは言わない!」だったわけで

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004 2021/05/09(日) 20:09:50 ID:ulKNLa15CU
Christy Mathewson
=Giants ( right-handed pitcher)

 1918年、第一次世界大戦に出征。化学作戦部隊に属して、毒ガスの使用法とそれに対する防御方訓練を受け、ヨーロッパの戦場へと駆り立てられた。
一行の中にはクリスティ・マシューソン、ジョージ・シスラーやタイ・カッブもおり、いずれも教官として毒ガス・火炎放射器部隊へと配属させられた。
当時の訓練の一つに「兵士たちを気密室に送り込んで、警戒なしに毒ガスを放出する」という危険なものがあり、全ての兵士は手の合図を見ただけでガ
スマスクをかぶらなければならなかった。しかしある日、マシューソンやカッブたちは肝心の信号を見落としてしまい、毒ガスの充満する気密室に閉じ
込められた。マシューソンやカッブは毒ガスをいくらか吸い込んでようやく事態に気がつき、すぐにマスクをつけ、手探りで壁を見つけて外に転げ出た。この時は肺が侵されて
いることに気づかなかったが、それから 数週間の間、胸から無色の痰が排出され、恐ろしい咳が続いたという。その後カッブはかろうじて回復しており、後にカッブは痰が止
まったとき、本当に救われた思いがしたと振り返っている。実際にこの事件で閉じ込められた16人のうち、8人までが死亡している。
 その一方でマシューソンはカッブに「タイラス、あそこで毒ガスを嫌と言うほど吸ってしまったんだ。ひどく気分が悪いんだよ」と語りつつ血がまじった痰を吐くなど、肺を
病むこととなった。そしてこの訓練こそがマシューソンの死の遠因となった。
 第一次大戦終戦後、復員したマシューソンは療養地として知られるニューヨーク州サラナク湖にて療養生活を送ることになる。マシューソンは一時的に健康を取り戻すことは
あったが、療養の甲斐なく1925年に肺病(結核)のため療養先のニューヨーク州サラナク湖畔の療養所にて、45歳で死去した。墓は故郷に程近い、ペンシルバニア州ルイスバー
グに建てられている。
 カッブは後年、マシューソンの最期について「あの忌まわしい運命の日のことを、私はまざまざと覚えている」、「1925年、この不世出の大投手クリスティ・マシューソンの
生命の火はついに燃え尽きた。ちょうど彼独特の、あのフェイドアウェイのボールのように」と自伝で振り返っており、「奇跡的に生き残った同僚のひとりとして、私は彼に対
し、心からの敬意を表したい。彼は数々の大記録を残したが、私が思い出すのは、その面での彼ではない。スポーツ界まれに見る偉大な人物、偉大な競技者としての彼に対し、
私は衷心からの尊敬をささげるものである」と記している。

こうやってみると。「人間としてのタイ・カッブ」であり、戦友として、生死の境を共にした同僚として、「良いヤツ」だったことが理解できる。

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005 2021/05/09(日) 20:30:00 ID:ulKNLa15CU
Dominic DiMaggio, left, seen in 1949, still holds the Boston Red Sox
Joe DiMaggio, right, the Yankee Clipper.




時代は、グッと下って
ディマジオ三兄弟の2番目ジョー・ディマジオがNYヤンキース、末弟ドム・ディマジオがボストン・レッドソックス
ライバル球団で戦ったのも、何かの縁なのか?

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